プログラマとして働き、フリーランスになってから3年目になる。情報処理技術者試験というものがあるが、そもそも「情報処理」ということについて見つめ直さねばと考えている。いや、ずっと考え続けている。しかし、もう何となくではダメなのだ。

開発者として活動する傍ら、講師としての活動も行っている。そこでは情報リテラシーについて自発的に学習してこなかった人が多数いる。今やPCスキルはあって当たり前の時代とは言われているものの、日本の普及率は60%で頭打ち。これだけインフラが整備されている国にもかかわらずだ。更にその中で情報リテラシーを持っていると言える人はどれだけいるのだろうか?

震災でインターネットは何の役にも立たなかった。それはそうだ。通信インフラが破壊された世界でインターネットは人を救えない。しかし、インフラが復活し始めてから情報を手に入れられない、いわゆる情報格差によって損をしている人がいるのも事実だ。

情報社会という手垢まみれの言葉への考察と提案は星の数ほどあったはずだ。しかし、たかだか50年程度の歴史しかないとはいえ、情報処理への取り組みは疎かなままだ。新たな技術が、新たなサービスが日々生まれている。日本は創造という分野で負けている。そう感じている。精度を上げたり、細分化することで右にでるものはいないのだけれど。

何も全員ブラインドタッチができるようになれとか、プログラミングできるようになれとかを言いたいのではない。いや、プログラミングはできた方が得だが。ともかく、私はプログラマとして、情報処理技術者としての道を選んだからには何かを残したい。

当然、モノで残すのは宿命だと思うのだが、それらは時代と共に変化するので恒久的ではない。人間が情報に価値を見出し、未来も情報に価値を求めているのが人間ならば、考え方を残したいと思う。歴史的格言が現代にも影響を与え続けているように。

記憶力よりも応用力

講師として毎度実感することは、習う人間の背景は千差万別であり、解釈にも多様性があるため、厳密な知識を全員に共有するのは非常に難しいことだ。だが、そもそも厳密な知識が必要な場面はどれだけあるのだろうか?大概の状況において、重要なのはHTTPの仕様の暗記ではなく、HTTPの特性や使いどころを知ることだ。立ち位置にあった情報、つまり状況にあった視点を持ち、それに相応しい粒度の情報を得ることなのだ。

さらに大事なのは、適切な情報にたどり着く術を持っていることだ。私にとって講師の役目とは、辞書の単語を教えることではなく、辞書の使い方を教えることだと考えている。英和だろうが仏和だろうが英英だろうが何でも構わない。何を選ぶかは状況によって変わる。しかし、使い方がわからなければ思考が止まってしまう。

これからのビジョンと当面の目標

これまでに述べたことは珍しくも何ともない。何を当たり前のことをと思う。しかし、情報処理という概念やその過程を適切に言語化、図解して多数の人に理解してもらえる人はどれだけいるだろうか?多くの人は情報処理を体験として蓄積しており、自分だけなら理解できるとしても、同じことを前提の異なる人間に対して具体的に共有し、自分と同等かそれ以上の結果に導ける人はどれだけいるだろうか?

情報処理の重要性を認知し、自発的に処理能力を向上させる意識を持ってもらう。私の講師活動における最初のゴールだ。そこからがまた、新たなスタートになる。今度は情報処理の効率を上げていく。これは生産活動の効率化に直結する。すると何を期待できるか。有限であり、絶対的な存在である時間を圧縮できる。そうすれば未来が近くなる。

私は今のスピードで死ぬまでに体験できるであろう未来よりも、もっともっと遠くの未来を体験したい。未来の渦中にいたい。直近の目標としては、今の生産性で体感している24時間を48時間相当にしたい。それはつまり、未来への距離が半分になる。子供だましのような数え方だし、大仰な話だが、私にとっては大真面目な話であり、これからのアンカーとなる。